松帆の浦は、淡路島最北部の海岸に沿って広がる平野で明石海峡を渡るために利用されていました。人々が海峡の荒れたときに風待ちや潮待ちをしたのが松帆(待つ帆)の由来といわれています。播磨灘と大阪湾を隔てる明石海峡は、潮の流れの激しさから「瀬戸内の難所」と呼ばれ幾内へ向かう海上交通の要塞として、海人が活躍していた場であったと考えられています。
「松帆の浦」海岸に立つと、激しい潮流で全身が潮にとりつつまれます。古来、松帆は製塩が盛んな地でした。朝の藻刈りや、夕の藻焼き風景に当時の高貴な人々は強い憧れを持っていたようです。聖武天皇の播磨の国印南野への行幸の際、笠朝臣金村は、「松帆にいる藻を刈る美しい娘子への憧れ」と「聖武天皇の見納める土地を讃美」して松帆の浦の長歌を詠んだそうです。百人一首の撰者でもある藤原定家は、その長歌を題材として、“こぬ人を まつほのうらの ゆふなぎに やくやもしほの 身もこがれつつ”と詠んだという説があります。
現在、「松帆の浦」には製塩工場はありませんが、水産加工場が集積しており、春の時期には「ちりめんの天日干し風景」を見ることができ、塩ゆでや釘煮の香ばしい匂いが辺り一面にたちこめます。松帆の浦の山側には、明石海峡の眺望が満喫できる温泉施設、美湯松帆の郷があります。